やらかした後悔、たとえばイジめたくもないのにイジメに加担したり傍観した後悔。守ってあげたい人を守り切れなかったときの脱力感。本来の自分なら決してそうしたくないからこそ沸き起こる、何十年もしばりつける罪悪感。
これは親への関係でも以下のように現れるケースもあります。というのも、アダルトチルドレンの自覚のある方にとっては、親にとって満足ではない自分への罪悪感と同時に、いつまで償わせる(期待に応えさせる)のだ!といった憎しみにも似た苛立ち、場合によっては暴力的な衝動にまで発展する方もいらっしゃることでしょう。
どなたにも何か抱える大小さまざまな罪悪感が必ずカウンセリングでは現れます。
今回はそうした罪悪感、加害者意識とでも呼べそうな辛さについて向き合い方をお伝えします。
※この記事の内容はメールマガジン、YouTubeの両方で発信し、YouTubeでは以下のURLより(25分かけて徹底解説しています)、メルマガの内容はこの記事で深堀りしながら文字に起こしています。
目次
罪悪感に希望を砕かれるタイミングがある
さて、とくに今回のテーマである加害者意識は、カウンセリング中に現れやすいタイミングがあります。
ご自身の辛さが少しずつやわらぎ、将来への希望が見え始めたタイミングです。まるで足を引っ張るのを待ち受けていたように「お前にはこんな過去があるから幸せにはさせないぞ!」と、イメージ上の被害者が強く相談者さんを責めてくるのです。
誰だって、誰かとの関係では被害者で、ほかの誰かとの関係では加害者であり得る以上、お悩みは被害への辛さだけにはとどまりません。 同じ方のカウンセリングをしていても、被害の辛さや憎しみから解放されつつあるとき、別のだれかへの加害者意識が幸せになることを禁じる例も多くあるように思います。
こんな自分が幸せになっていいわけがない、といった無意識が働くのが一例です。行動としては、目標の達成に向かいそうになると体調を崩したり、無気力になって結果がでないようにしてしまったり。
対人関係においては、罪悪感に縛られることで、別の方から理不尽なことをされて怒りが湧きづらくなったり、自分の幸せが誰かを傷つけるの恐れがでたり、または長年にわたって報復めいたいものを恐れたり。
例えばシンプルに、いきなり殴られたから相手を突き飛ばした、という例で罪悪感に苦しむ方は少ないでしょう。
多くの場合、本心ではやりたくなかった、怒りや恐怖をおさめきれず、やむを得ない罪悪に対して、人はとても大きな縛りを受けてしまいます。その弁解の一切を自分で許せず、それでも自分の中に納得のいかない歯がゆさもあり、そのやむを得なさすらも「開き直るな!」と哀しみすら自分に許せなくなることも。
そして、この罪悪感は逆説的に、誰かを許して憎しみを手放すことをできなくさせてしまいます。
自分も許されないのだから、自分を理不尽な目に遭わせてヤツも許してたまるか!といった気持ちが強まり、そうなると”うっかり”幸せになってしまっては、この恨みはずにいるべきか!と無意識に幸せを潰すことを繰り返し、自己嫌悪に陥ることも。
開き直ることも本心とは違うし、許しを求めるのもかなわず、本当に手づまりな感情。いかに向き合えば良いか、そこにあるヒントは”昇華”という考え方です。
罪悪感の矛先を変える”昇華”の考え
昇華とは、この記事においては「苦しい感情を加害者被害者の二つにわけず、第三の道に注力する様」としますね。厳密な心理学の定義だと、もっと枝分かれして細かく名づけられています。
※興味があってお勉強したい方はユング心理学という分野を深掘りされると良いでしょう。
さて、本題に移りましょう。
罪悪感に幸せを阻止されるケースはジャンケンにも似ていて、いわゆる”3すくみ”で誰も動けない状態です。3すくみとは、先にグーを出せばパーで負け、出されたパーにはチョキがでて、そのチョキにはグーが出る。どれを選んでも負けてしまうので、3者が何もできない状態を指しています。
カウンセリングの現場で多くみられるのが、ひとりでグーチョキパーのすべてを、すべて勝ち(傷つける)パターンでのみ、変身する人がいる事例です。
自分が何をしても、誰かが不快になるから何もできない、という世界にいらっしゃる方。しかし佐々木さんにとって、第三者のDさんが救いの天使になることもあり、でもそのDさんが誰かにとっての加害者かもしれません。
それでもDさんが救いの天使であることには、佐々木さんにとっては変わりなく、それは意図せずDさんを大きく救う眼差しになります。その眼差しに、Dさんはさらに応えてくれるでしょう。Dさんの周囲にもDさんは応えるでしょう。
さらにDさんに応えられた佐々木さんは、Dさんにも周囲にもその温かさを無意識に連鎖させるでしょう。
このぐるぐるは、とてもかけがえのない、そして人はこうあるのが理想とすら思うのです。
やらかした後悔もされた恨みも循環していくのが理想
やらかした後悔を当事者同士だけの問題で捉えてしまうと、開き直るか忘れるか、いずれにしても不道徳な自分像から抜け出すことができません。こうはなりたくない、と思う自分像に苦しめられ、それでもなお不本意に加害者になった自分を弁解したくなることもあります。
被害感情が強いときも同じです。忘れよう、考えまいと抑圧するのも苦しければ、それに失敗したときの相手への恨みが倍増するのも苦しいものです。
そこでもちたい視点があります。それが、僕たち一人一人は他のヒト全体のなかの一人、という自己像です。
開き直らなくても良いし、笑っても構わない。ただそこで釈然としない罪悪感は、他者との関係の中で償っていくことだって可能です。やらかした相手に直接届けることができれば”わかりやすい”かもしれませんが、それだけが救いの道ではありません。
そもそも、被害者側が受け取りを拒否する場合もあるし、物理的にも精神的にも(たとえば引っ越しや逝去などで)償いが届かないこともあります。やむを得ずの加害者意識の場合は、弁解したい気持ちだって芽生えて、より複雑な心理となるのです。
僕たちが生きていく中で、絶対的な被害者もいなければ絶対的な加害者もおらず、自分が”許されない”コトをしたとして、ずっとその方への罪悪感に縛られることは、その方を絶対的被害者と決めつけることになります。
これが1対1、当事者の関係で縛られている状態です。加害者意識に苦しむときの相手を、自分では絶対に立ち直れない、かわいそうな他者と決めつけているイメージです。
その他者はずっと自分を責める権利がある清廉潔白な存在として自分の中に歪んで生き続けます。
その方との関係性では、自分は”やってしまった”側かもしれない。
そうなると、その方は一切誰かを傷つけずに生きねばならないという世界観を加害者から映し出され、それは同時に加害者もそうすべき姿勢に縛られます。
ただ、現実として、誰も傷つけずに生きることは不可能です。むしろ、誰にも迷惑をかけずに生きてきた、と言い切れる人のほうが危険です。
僕がこうして配信するだけでも、その意図はなくても誰かを傷つけるだろうし、YouTubeで顔を出せばそれが気に食わない人もいます。めったにありませんが、配信と関係のない、人格攻撃を受け取ることもあります。
でもそこで、僕が被害者として理不尽さだけを訴えたとしたら、僕の内部でつじつまがあわなくなります。
とういのも僕にだって、たとえばおもしろいと思われたくて調子に乗り、不必要に傷つけた人もいるのです。他にも償いたい事例はいっぱい。それらは100回土下座したって取り消せません。
かといって、だからお互い様、と理不尽な攻撃を許すのも違う気がします。自分の腹の虫がおさまりません。
じゃあ、どこに本音があるのか。
あくまで僕の場合ですが、僕に理不尽な傷を与えた人に、「一生頭を下げろ、苦しめ」と命ずる世界になんて、正直いたくもありません。さっさと忘れて、楽しい時間に身を置きたいのが本音です。
たとえば加害行為を思い出し、胃を痛めて自分をけなし、自分が悪い、と一面的に納得しようとするのは、このように自分が被害に遭ったトラウマに、自分をしばりつける行為でもあります。
だって、決して自分が許されない分、自分も誰かを決して許したくなくなるから。
僕はね、この縛り合いが生まれるのって、きつすぎると思うのです。ただし、さきほどの理想の連鎖とこの縛り合いは、同じ事例の裏と表で引き起こされるのです。
加害者の後悔と被害者の気持ちへの配慮はどこで折り合うのか
だから僕は、加害者の意識に苦しむ人に必要なのは、あなたが勝った(傷つけた)じゃんけん以外の関係性で、他の”アイコ”の関係をたくさん結ぶことだと思うのです。
勝ち負けじゃない、居直りでもない、加害の関係以外の人との間で、たくさんアイコを作ること。エネルギーの使い道を、罪悪感からアイコづくりに転換してほしい、と切に願い続けるのです。
そのほうが勇気がいるし、頑張りも忍耐も伴います。でも、願ってしまうのです。
被害者にいるときは憎しみで加害者にいるときは罪悪感でそのいったりきたりではなく、アイコの道を探すことを、僕は昇華と呼んでいます。
罪悪感にさいなまれる、自分を非常に強くけなすエネルギーを、「次からはしない」という反省ではなく、「こうしたい」と思えるエネルギーに注力する、その先をカウンセリングでは考えるのです。
一般論なんてどうでもいい。
失敗を成功に?次に活かす?
そんな正論があなたを救えるのでしょうか。
もっと具体的に、どうなりたくてどうしたいか。その注力先を見つけられたとき、自分が被害者の憎しみから晴れ、加害者の罪悪感からは、居直りでもない謝罪の気持ちや、相手の幸せを陰で祈れる強い心が生まれることと思います。
というか、生まれました。僕には今、たくさんアイコがいるからわかるのです。こればかりは譲れません。
自ら創り上げた信念の前には、「それでも傷ついている人がいることを忘れないでください。」などということを、全く関係のない当事者に訴えるような、もしくは自分で勝手に想像するような、一般論的な正論は通用しません。
そのためには、先のDさんのように、僕は目の前のご相談者様の、一方通行でもお力になれるなら読者様の、アイコの存在になりたいのです。
一緒に探そ。
一緒に持つよ、その罪悪感。
僕との間ではアイコでええやん。
もしも被害者から「開き直るな」って言われたら、僕は全力で寄り添うし。開き直るなって叫ぶ被害者側の人に、その憎しみの辛さを和らげてくれる人が現れたらいいねって一緒に祈るから。
どうかそのまま自分を忘れてくれますようにって、自分のために祈る自分を責めなくていい。どうしても責めてしまうなら、代わりに僕が祈る。そんなアイコの存在を体験し、拡大していけるよう、支援を続けたく思うのです。
それでも被害加害の感情から抜け出せない!ときには…
こうした発信をしていると、理屈ではわかるけどやっぱり無理です、といった悲鳴をコメントやメールで”ぶつけられる”ことがあります。
あえて”ぶつけられる”という言葉を使ったのは、無理だと決めたくなる自分の気持ちを表現なさっていないことに、僕が哀しみを覚えるからです。過去の僕はこれを、恋人や友人などの依存先にぶつけてばかりいたのです。
これはジャンケンですらなく、一方的にぶつけて去るだけのコミュニケーションで、あわよくば嬉しい言葉を相手からひきだせるかもしれない、でも自分は開示しないから察してくれたらいいかな、という非常に消極的な状態です。
すると、多くの場合ぶつけられた側は推測を余儀なくされます。
どんな意図で自分にぶつけてきたのだろう。
こちらの配信が間違っているのだろうか。
傷つけてしまっているのだろうか。
立ち去られている以上、推測の域をでることはできず、コミュニケーションが成立しないばかりか、推測に使うエネルギーは人を消耗させるため、ぶつけられるコミュニケーションからは人は距離を置きたくなります。
そうして、抜け出せない辛さを抱えたまま人が離れてしまい、孤立を深めて人間不信も強まる悪循環に身を置いてしまうのです。
なので答えは簡単。
それでも抜け出せないときには、抜け出せないから自分がどう思うのかを表現できるかにかかっています。誰かにぶつけるのではなく、自分が自分でしっくりくる言語で自分を表現すること。
その次に、聞いてもらいたい人、もしくは熟慮して練り上げた言葉を表現の場で開示すること。それはSNSであれブログであれYouTubeであれ、なんだってかまわないのです。
そこからジャンケンが始まり、アイコなのか勝ち負けかはわかりませんが、昇華の第一歩が始まると僕は考えています。
アダルトチルドレンは常にといってよいほど、対人関係において親御さんへの罪悪感と憎しみのはざまで行動を決定してしまいます。相手の顔色を窺いつつも、窺う自分に嫌気がさし、そんなコミュニケ-ションを思わせる他者に、必要以上の恐怖や憎しみをもってしまう。
それを回避したり不安が強まったり、その方それぞれのケースが、やらかした後悔や罪悪感となって苦しめてくるような気もします。
どうかこの記事があなたの過去の行動を捉えなおし、別の循環のもとへ辛い気持ちが流れ昇華されていきますように。
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